第59回 和歌山市交響楽団 定期演奏会 ショスタコーヴィチ10番 (2026年 6月 28日)

日記

6月28日 和歌山市交響楽団の59回の演奏会に行ってきた。
プログラムは、チャイコフスキーの序曲と、ラプソディー・イン・ブルー、メインはショスタコーヴィチの10番だ。

ラプソディー・イン・ブルーは華やかな中にも都会的な憂いの色があったり、ピアニストの女性は体当たり的なよさが印象的。
が、なんといってもこの日はメインの10番が感動を押し流した。

まずなんといっても曲が素晴らしい。
特に第一楽章は、構成が素晴らしく、傑作中の傑作だと思う。15曲の中で一、二を争う名楽章ではないか。
演奏は素晴らしかった。
冒頭のクラリネットが、凍てつくロシアの寂寞とした大地を思わせる。「神も仏もあるものか!」というこの作曲家独自の身も世もない世界が語られる。
弦、金管と一体になった最初のトゥッティでは、響きの立派さに鳥肌が立った。それにしてもクラリネットの寂寞なモノローグ、コントラバスとの対話はなんだろう。
やがてフルートがそっと入ってくる、弦がピチカートが答える。オーボエ、ファゴットがうごめく。
やがて、音楽は、押し流され、マーチ風の主題へ入り、絶唱となる。
耐えに耐えた、ホルンやチューバが裏側からささえ、やがてオーケストラが全員で、「どーしてくれるんだ!」ともんどりうつ。
チューバ、トランペットのあらがう響き。
やがて、13:18(タイムはムラヴィンスキー盤)からの「ティラリラリ」のマーチが奏される。
僕には必死に何かに「耐える,ertragen」「圧政に耐える」音楽にきこえてならない!
やがてまた、最初の主題(これは市井の人、弱者を表していると思う)が金管の追撃(スターリンか)を食らわされ、息も絶え絶えになる。
そしてヴィオラが嘆きをうたう。

いやはや、曲に対する個人的な思いの丈を述べてしまった。が、それくらい素晴らしい演奏・音楽なのだ。
もちろん、市民交響楽団なのだから、ほころびはあるが、聴いていて、身がよじれる想いは上記の通りだし、なによりトゥッティにおける全合奏の響きがDSCHそのものだ。
それからこれは表現しにくいのだが、Violaだ。弦の全体の中でのヴィオラの部分の響きがよく、それが実にショスタコーヴィチらしい音色を構成していた。ヴィオラのパートが強いとかそういうことでなく、「オケの中でのヴィオラの帯域の音色」にコクがあり、それが音楽を聴く上でプラスとなり、演奏を雄弁にしている。
最後は、例によって星のまたたきで終わる。

続く第2楽章はテンポの遅さが目立つ。当初これはオーケストラが弾きやすいためかと思ったが、聴いているうちに、これは江田先生の解釈ではないかと感じた。江田先生はロシア音楽に深い共感をお持ちのような気がした。
自分は中学生のころ、先生から一度、井上道義さんのリハーサルのビデオをおかりしたことがある。その曲は、やはりDSCHの8番だった!パート練習というのか、井上さんは、管楽器に稽古をつけていた。年月を経て、江田先生が、自分なりに10番に思いを込められたのは当然であろう。
それにしてもピッコロはすごい。出ずっぱりだ。スネアドラム、木琴はもっと爆発してくれ!ここは狂気の音楽なのだから!

第三楽章、ここは謎だ。死神がへんなワルツを踊っているよう。
そしてエルミニョーラの音型があらわれる。ホルンがものすごい音で迫ってくる。そして例のソロVn。このコンマスは上手い。フルートもモノローグを歌う。ファゴット、オーボエ。。。
音楽はある種の皮肉、アイロニーをあらわしているような気がする。ただなんだか割り切れない音楽だ。DSCHの音。
やはりまたオーケストラの中のヴィオラ的帯域の音が大いにモノを言っている。すばらしい。

終楽章。。ここはDSCHの嵐だが、音楽的には無理やりこじつけたような感もあり、一段落ちるような気もする。
オーボエの皮肉なニュアンス、そして、大魔神出現!(本当だ!)のように金管楽器がレミドシの音を叩きつける!
スターリンに勝ったとでも言いたかったのか。。。
ともかくここでの死んだ気のようなオーケストラ全員の合奏は生で聴くとぶっ倒れそうだ。

いやー、非常に感銘を受けた、曲、演奏だった。

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聴いていて、ふたつのことを感じた。
一つは岡本太郎の芸術の三原則、「うまくあってはいけない」、「きれいであってはならない」、「心地よくあってはいけない」だ。
この10番の音楽はまさにそうで、きれいさ、心地よさなど薬にもしたくない。それでいて、聴いていてなんという深い音楽だと思わせる。まさにマジックだ。
もう一つは、こうしたベートーヴェンタイプの芸術がブラームス以後に書かれたことにへの感謝だ。
うかがった話だが、アマチュアオーケストラは、金管楽器などの出番を考慮し、ロマン派以降のプログラムによりがちであると。

そうなると、例えば、シューベルトの「未完成」のような編成の点で小さくても、芸術性は高い、という作品は演奏されなくなってしまう。
その意味で、ベートーヴェン風の(ここではそう定義する)「きれいでない」「ここちよくない」「うまくない」、つまり深い音楽が、残されていることの意義はより大きくなる。

もちろん、市民オーケストラなので、ほころびもあるが、全員一丸となって、DSCHの音楽になっていた点、素晴らしいと感じた。
オケの皆さまに感謝。とりわけ、ピッコロ、ファゴット、クラリネット、オーボエといった方たちには、大感謝を捧げたい。
弦楽器、ヴィオラ、コントラバスも、金管の方々、打楽器の方も大感謝だ。
そしていつか、14番(辛口最右翼!)を演奏して欲しい!

PS:
読み返すと、曲に対する感想に近い、、、とはいえ、曲のよさを十二分に引き出せた演奏だと個人的には感じた。
そのエッセンス(全容はラジオに入らない)は、9/13 91時からのFM放送でも伝わると信じたい。

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