僕は和歌山市に住んでいる。そこに偶然、南葵音楽文庫というものがある。そのことは度々ブログで紹介した。先日、その紀要を見ていると面白い発見があった。以下、探検読み物風に書いてみた。
また調査は完了しておらず、途中経過的な意味で書いてみた。もしかすると誤りなどもあるかもしれない。
まず、南葵音楽文庫紀要という冊子がある。
紀要4号を読んでいた時に「カミングス文庫」について書かれたものがあった。最初はそうなのか、「そういう蒐集家が集めたコレクションがあるんだ」と思った。僕自身、言語に興味があるので、時代的にラテン語で書かれたものがあるのか、あるのであれば授業のネタになると思った。
それでパラパラめくっていると、37番に目がとまった
Catalogue of the library of Dr. Kloss, of Franckfurt aM., Professor; | including many books with ms. annotations by Philip Melancthon.

ms.はマニュスクリプトの略だそうだ。
「フィリップ・メランヒトンによる手書きの書き込み」のある本が多数含まれている、と記載されている。
サザビーズは、あのオークションのサザビーズだ。
およそ、このドイツ人なのに、ドイツ人ぽくない変な名前は、ギリシャ語、ラテン語といった古典語を学ぶ人ならなじみにある名前だ。
一般的にはルターの盟友としてしられる。ものすごくギリシャ語ができた天才として有名で、ルターと大学をともにし、年齢も近い、ルターがギリシャ語を学ぶ際に、ガイド的な役割も果たした、とも考えられる。
すくなくともルターはギリシャ語を学習するさいに、同じ大学で同僚(ヴィッテンベルク大学)で、片方がギリシャ語教師、片方は神学の先生であった。
ヴィッテンベルク大学は、ルターが「95か条の論題」(ラテン語の名文だ。聖書のギリシャ語の原義に遡ってローマ教皇を批判している。)を張り出した有名な大学だ。
メランヒトンの名前の由来がそもそも面白い。本名のフィリップ シュバルツェルトの姓”Schwartzerd”(黒い森=シュヴァルツヴァルトのシュヴァルツ「黒い」+「大地の歌」のエルド「大地」、合わせて「黒い大地」の意)をギリシャ語になおした名前を通名として使っていた。
どうもこれは、大叔父にあたるロイヒリンが名付けたようだ。ギリシャ語を習いはじめたSchwartzerdに、黒いという意味のμέλας(メラニン色素のあのメラニンだ)に、χθών(クトーン 土地)が合体した語である。
当時、人文主義者の間では、ドイツ語の名字を、ラテン語、ギリシャ語で表すある種の流行があったようだ。
また叔父であるロイヒリン(ヘブライ語研究の第一人者)が、メランヒトンの才能を見込んだというふうに記述しているものもある。
要は、彼のギリシャ語の才能を見込んだロイヒリンが、メランヒトンの能力を買って名付けたと。
これは事実に相違ないと思う。
が、問題は、能力で、メランヒトンがロイヒリンと会ったとき、メランヒトンは16歳で、まだギリシャ語の能力はそれほどでなかったと思う。なぜなら、当時メランヒトンが学んだ学習書が明らかになるからだ。
別にメランヒトンの能力を貶めたいとかではなく、ギリシャ語は本格的にやろうとすると10年はあっという間に経つものだからだ。
もう一点、これは今回の調査で今のところ分かっていることだが、当時、非常にギリシャ語、ラテン語学習書がすたれていた時代だったということだ。
ラテン語の文法書は、今回の調べの中でみたが、まぁ、おそまつというか、工夫もなにもない。ただ変化表があるだけだ。
そして、ギリシャ語にいたってはあのメランヒトンでさえ(当時の学生としては恵まれていたほうだろう。なにせ、叔父がロイヒリンである。)、ギリシャ語の学習書は、手薄で、東ローマの学者が書いた文法書の寄せ集めで勉強した形跡があるからだ。
このことは後述する。
で、とにかくこのメランヒトン本人が、annotation(ad-(〜へ、〜に)+ notāre(印をつける、書き記す)した本が多数含まれているクロス博士のカタログとある。
ふうむと思った。
たしかに面白いと。メランヒトンが本の余白になにか書き込んだのだろうと。それが一冊、二冊でなく、many booksあると。
これがことの発端だった。
この時点で、ふと気になって、ドイツ人の友人(コミックツァイヒナー、漫画家です)に知名度についてきいてみた。
すると、「ルターほど一般には知られていない」が、自分は、歴史物語を漫画で描くさいに、とり上げたので知っている、と述べていた。
どうなのだろう、空海ほど誰もが知る有名人ではない、源信くらいの知名度といったところだろうか。
僕にとって関心があるのは、一時は西側で廃れたギリシャ語教育が、エラスムスやロイヒリンをはじめ当時の人文主義者と出版業の人々!にとってどのように復興されたのか?という点だ。
彼らが、いなければ、われわれのギリシャ語、ラテン語原典へのアクセスは今ほど容易ではなかったこと、これらは間違いない。
ともかく、中世(5世紀から15世紀)を通じて、西側でギリシャ語を学ぶ人、つまりプラトンを原典で読める人は少なく、西側でのギリシャ語学習は低迷していたことは間違いない。
以下、続く。



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