『瑶光梅』のコスモロジー

日記

去年一年間で、いろいろと面白い発見があった。
それは和歌山県立図書館で行われている徳川頼貞にかんする読書会への参加だ。
まだまだ知名度は低い(クラシック好きの自分でも最近知った)が、和歌山には南葵音楽文庫という、読売交響楽団から寄託されている膨大な楽譜・音楽書ライブラリーがある。
研究者の方が関わったり、または、演奏会自体もいくつか開いている。
自分は昨年度から、その読書会に参加している。

徳川頼倫というのは、音楽文庫を作った頼貞の父である。
父が南方熊楠に会って触発された図書館という事業を息子が「音楽文庫」として継承・発展させたのである。

先日は、市立博物館の新井さんをお招きして、頼倫に関する資料をスライドで発表する機会があった。
その中に「瑶光梅」という梅の木の由来が書かれた立札があった。
その一文は当人も気に入ったのだろう、絵葉書にしている。(画像参照)

後日感想を、メーリングリストに投稿した。
捨てるには惜しいので、以下にも貼り付けることにする。


以下本文

先日の「瑶光梅」について、気になったので調べました。
新井さんの論文を拝見すると、元の文章が掲載されていました。

■■■原文■■■

此の梅の樹を移植えんとて、根もとに
鍬をいれたるに、小さき亀の子のまだ卵の
つきたるままなるが二疋あらわれ出たり、おり
ふし樹梢に咲きたる花の光る星を綴るに
似たるより、春秋雲斗枢にいふ、瑶光星の
殞ち散りて亀となれる故事を思ひ浮べて、
瑶光梅と名付けぬ、もし瑶出島、明光蒲
なとにもよそへて、
この花をめつらん人あらは、
夫は其心けにまかのせてむ

大正庚申年正月

■■■試訳■■■

この梅の木を移し植えようと思い、根元に
鍬を入れてみたところ、まだ卵がついたままの小さな子亀が二匹、
ひょっこりと姿を現した。
ちょうどその折、枝先(樹梢)に咲いている花が、光る星を連ねたように見えた。
それゆえ『春秋雲斗枢』にいう、「瑶光星が空から落ちて散り、亀になった」という故事を思い浮かべ、この梅を「瑶光梅」と名付けた。
もしまた、「瑶出島」や「明光蒲」などになぞらえて、この花を愛でようとする人があるならば、それはその人の心のままに任せておこう。


新井さんのお話の時は、拝聴に精一杯で、内容にまで頭がまわりませんでした。
これはなかなか、味わいを感じました。

まず、
【客観的事実】としては、
①小さな亀が二匹でてきた(卵つきで)
②枝先の花が見えた。

これに対して、
【頼倫の主観的把握】として、
③花がまるで、星々のように見えた。
④「瑶光星から亀になった」という故事を思い出した。
⑤「瑶光梅」と名付けよう。

頼倫は故事を媒介に「この亀は星の化身であり、この梅は星そのものだ。」という直観があったのだと思います。
梅が天(星)の象徴、亀が地の象徴とすれば、
「亀と梅の一対」のうちに、天地の対応、さらには宇宙の運行を感じ取ったとも考えられます。
そこには、宇宙の縮図(ミクロコスモス)を見るような趣があります。

■コンステレーションについて
バラバラに存在する星々が、見る側の視点によって意味ある星座(たとえば大熊座)を形作る。
同様に、客観的な出来事と自身の直観が共鳴し、一つの『意味のある構図』として結びつく、ということが、「コンステレーション」だと思います。

「一対の亀と梅」が、天地の構図、宇宙の摂理のような意味が頼倫に「意味のカタマリ」「一つの全体」として迫ってきたのではないでしょうか。

また、「卵つき」という点も、「誕生」「再生」「生成」といったイメージを喚起します。生命の生々しさ。

自分はライプニッツの「おのおののモナドは、全宇宙を表象している。(鏡のように映り込んでいる)」という発想を思い出しました。
あるいは、華厳経の世界。
一即多であり、多即一の世界。
「一塵中含十方(いちじんちゅうがんじっぽう)」
一塵の中に全宇宙が含まれているという華厳の世界観。
マンダラ。
熊楠が粘菌に宇宙を見出していたように。

他方で、頼倫は近代の人でもあり、こうした意味の構図が主観によるものであることも、自覚しています。
だからこそ最後に、「その心にまかせる」と述べ、意味を開いたままにしているのでしょう。

正直、最初は風流人の手すさびのような印象を持っていましたが、掘り下げてみると奥行きのある文章でした。
その意味で、中井さん(MLのメンバーでユング心理学が専門)の「コンステレーション」という発想は、とても良い触媒になりました。ありがとうございました。

ちょっと大風呂敷を広げすぎたかもしれません。😅
長文失礼しました。

今は建物が移築され、海南市にあります。

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