先日、クラシック好きで、かつクラシックに関する本も好きという人と打ち解けて話す機会があった。
その人に「宇野功芳のどこがよいですか?」
ときかれ、とっさに、
「情報量が多い。指摘が具体的。ここは、フォルテ、コーダは快スピードなど、描写が具体的で目に浮かぶ」と答えた。
実際そうだ。
自分が読んでいた当時、
小石さんは
「歌謡的な特徴を遺憾なく発揮」
自分の印象→「なにを指しているのか、輪郭のはっきりしない文。」
志鳥栄八郎
「弟子のヴァイオリニストからうかがったが、彼女はシゲティにお尻を触られた、云々。」
→どうでもよい情報!
アルプス交響曲についての文では、「自分がアルプスを見た体験」をえんえん書いていた。
→まったくどうでもよい
もはや漫談レベルといってよい。
志鳥ファンの皆様、ごめんなさい。(漫談と割り切れば、面白いので、何冊か持っている。)
小石ファンの皆様、ごめんなさい。(何度も読むと、小石さんは”こういう演奏”の時、歌謡的というのか、と段々分かってきて面白い。彼の中での「歌謡的」という形容詞は、「演歌的」とほぼ重なる模様。コバケンについての文にて多し。)
まぁ、そういう文章に比べ、演奏評における宇野さんの描写は、情報量か格段に上だ。
まず上記、批評の具体性、情報量が一点。
これは、分かりやすいので、当日、クラファンの方にお伝えした。
もう一点、これは僕が最大級に宇野功芳を買っている点だが、
音楽(鑑賞)を人間の尊い営みとして捉える世界観、人生観にうたれるからだ。
だから個々の演奏の評価において、宇野さんと意見が違っていても自分はさして気にならない。
話は変わるが、「美味しんぼ」というマンガがある。
主人公である山岡が海原雄山に買ったり負けたりするが、読者の着眼点はどちらかが勝つか?で見ているのではないと思う。
少なくとも、僕はそうだ。
どちらかが勝つ、負けるではなく、勝敗に至るストーリーの中で、著者の食への価値観、世界観に感銘を受けるのだと思う。
したがって、僕は個々のディスクにおいて、宇野さんとの意見の違い(推薦、準推薦など)は、雄山が勝つか士郎が勝つかといった差にすぎない。
ただその批評を通じて、宇野さんの人生・芸術に関する想い、考え方、感じ方が吐露される場面がある。
そういう時、非常に感銘をうける。
詳しくは、次回Part2にてまとめてみたい。
例えば、以下のような一節を読むと、いてもたってもいられなくなる。

ヴォーンウィリアムスを聴いていて、「虚無のなかのぬくもりがにじみでる」という感想が出てくるとは!!!
宇野ファンだった当時も、今も、やはりおどろいてしまう。
とはいえ、ここまで書かれているのに、準推薦とは、、、。


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