前回、宇野さんのオーディオ評論、ということで、B&W、ATC、ロジャースの聴き比べの記事を紹介した。
その中で、宇野さんが「演奏をきく」という観点では、三モデルの中で、ロジャースが一番と述べていることに言及した。このことをもう少し、自分なりに深堀りしたい。
まず整理すると、人間の耳は、「フォーカス特性」がある。宇野さんの評価を理解する鍵は、ここにあると思う。
宇野さんは、オーディオ評論家がほめる高い機種を必ずしもほめなかった。
それには理由があって、つまり聞き手、リスナーによって、重視する項目が違うのだ。
■オーディオ評論家→→→多くは、音の場所情報。ステージが見える等に重きをおく。新しい優秀録音を基準にする。今回なら金子英男さんは、装置や録音の時代的進化に力点を置いていた。
■宇野功芳→→→演奏家の解釈、意図が分かる装置を選ぶ。音場表現は不要。マスキングしてしまう場合はマイナスである。直接オンと間接音であれば、直接音成分重視。
そして、大切なのだが、『ステレオのすべて』で用いられたソースは、「ワルターを聴く」というテーマ通り、ワルター後期のモノラル、コロンビア響とのステレオ録音なのだ。
コロンビアとのものは、スタジオの空間が分かるものもある。(エンジニア、マックルーアのセンスに脱帽。)が、それ以前のもの。例えば、デッカの有名な「大地の歌」となるとどうだろう。(写真で「大地」の初期盤LPが再生されていた。)
ステージ情報はまるではいっていない。音像、演奏家の像が収録されているのみである。(村上春樹が古いジャズには古いJBLを愛用しているのに近い。そもそも音場情報なしなのだ)
もちろん、SPでもムジークフェラインの空間情報が入っているものもある。(ワルターVPOの田園 他)
が、基本的にモノラル期は、ハイフェッツなり、ワルターなり、演奏家がなにをやっているかに力点があることは間違いない。
空間情報は希薄、重きを置いていない。
ワルターの写真には、ワルターの体の真上にマイク3本をみたことがある。
ザルツブルク音楽祭などの実況録音などは、特に臨時マイクセッティングだと思う。ワルターの表現をまず汲み取ろうとする意図。
(グールドのピアノもこの系譜だろう。演奏家の意図を明確に表すが、残響やステージ情報は希薄である。)
「フォーカス機能」とは、出ている音そのものではなく、聴き手が脳内で重視した要素を選び取り、それらを再構成して知覚している働きである。
ここが僕の着眼点だ。
それによりステレオ装置の評価も変わる。装置になにを求めているかによって、聴く内容まで違ってくるのだ。
それをふまえると、「演奏家の意図」を理解するという観点では、100万のB&Wより、ATCより、30万のロジャースの方がよりよい、と判断した宇野さんの心の動きも理解できるのではないだろうか。
人間はものをありのまま認識することはできない。主観による”再構成”を経ている。これがポイントだ。
「観察の理論負荷性」という言葉、考え方をご存知だろうか。
ものを認識する際には、観察者のもつ理論や知識によって認識が影響を受ける、ということだ。科学哲学の用語だが、もともとの考え方は、「ザ・認識論」(哲学)だ。
ロックがtabula rasaを唱えた。
tabulaは板。tableのもと、radoは削る。カミソリ・rasorのもと。消しゴムeraser. むかしは板にワックス・蝋を塗って、それを削って文字を書いていた。
なにも削られていない、外部から経験がくわえられていない、心は、いわば白紙の状態。経験が加えられると、心は写し絵のようにそれを受け取る、という考え方だ。
それに対し、カントは、主観による構成主義を唱えた。ものをありのままに認識するのではなく、心は、認識主観のフレームワークの影響を受ける、という考え方だ。
人間における認識の枠組みとは、空間と時間、それからカテゴリー(原因や結果といった、意味付与機能)である。
この主観の機能により、認識(もしくは自然)は構成されるという考え方だ。いってみれば、認識とは、客観と主観の共労作用なのだ。
前者のタブラ・ラサ/白紙の立場と対比的にいえば、主観も受動ではなく、積極的に「認識」の形成に関与する、という考え方だ。
こういう考え方を「構成主義」といったりして、以後の哲学に非常に影響を与えた。
「観察の理論負荷性」の考え方もそうだ。僕はこの論者を直接知らないが、カント的構成主義の系譜にに連なる立場だろう。
一つ例を挙げる。
自分は、先日、有吉佐和子さんの『紀の川』を読んだ。大変面白く読んだ。
(以下は想像力、構想力の話なので、カントの「認識一般」の議論とはずれる。しかし主観がひろい意味で認識に作用している、という意味で、ざっくり受け止めてほしい。別に純粋カントである必要は必ずしもない。「観察の理論負荷性」だって、純カントではない。ヘーゲルのカント理解だって、、以下略。)
小説は場面を想像しながら読むものだが、『紀の川』を読む和歌山出身の僕の場合、主観の側に用意された絵の具やパレットが多い。
言ってみれば、主観の構成作用が強く働く場合。
小説の舞台である、九度山、六十谷、和歌山市内、紀の川を肌で知っている。
六十谷は、祖父母が住んでいたので、よく知っている。市内で育ち、今も住んでいる地域なのでよく知っている(自分の住む「駿河町」や饅頭屋、「駿河屋」も登場)。
和歌山弁の方言のニュアンスも知っている。それから文中で「土地の格」という言葉が出るが、これも地元民にしか分からない肌感覚だろう。
そうすると、主観の側の構成する絵の具、パレットが実に多いのだ。
他の和歌山が舞台でない小説より、僕の側の想像力がより強くなる。絵の具でがんがん小説に色を加えるイメージだ。
そういう意味で『紀の川』は、僕にとって情報量が多い。
(宇野さんがヴァントが情報量100だとすると、小澤は30などと述べていたことを思い出す。一緒にはできないが。今度解明したい。)
有吉さんと同世代の和歌山生まれの女性なら、もっと絵の具やパレットが多いに違いない。
小説の中では、茶道や和装について、細かい言及があるが、その辺りまでニュアンスをつかむだろう。
読み手は、それぞれの視座において、作品を理解する。パースペクティブ。小説を読むというのは、その人に見合った小さな「ジオラマ」を作るようなものだ。
先ほどの「観察の理論負荷性」を思い出して欲しい。読み手側の主観の能力や働きによって、心の中の像「Bild」の中身は、かなりことなっていると思う。
オーディオも同じで、3人ならんでロジャースのSPで、ワルターのブルックナーをきいても、AさんのビルトAとBさんのビルトBでは大分違う。
カントは『判断力批判』の中で、「人間は容易に第二の自然を形成する」と述べている。
宇野さんは、「オーディオ評論家は、音をきき、僕は音楽をきく」という言葉を随所で語っている。宇野さんは、「演奏家の意図、やっていること」が、伝わる装置を求める。これが宇野さんの述べる「僕は音楽を聴く」の内実ではないだろうか。
三者三様、「第二の自然」が異なるのだ。ジオラマがちがう。
それが評価の違いに結びつく。
そして、ここまで聞き手の「重視する項目」の内実に目配せすれば、B&Wを評価する人、ATCを評価する人、ロジャースを評価する人がいても、それぞれの評価が異なっていて構わない。
少なくとも、オーディオでよくある「喧嘩」は起こらないのではないか。笑
また同じ人でも、演奏家よりできく日と、作曲家、録音の良し悪しに着目した日でも装置評価は異なる。そうなると、オーディオの評価はかなりむずかしい。
個人的にはつねづね、オーディオの評価は、コンサート評よりむずかしいと思う。
そして、オーディオの方が、「媒介」が多い。
が、本来、批評というのは、以上のようなものすごく「デリケートな行為」なのだ。
賛同者探しと批評は違う。
自分と違う価値も受け入れる、視野を広げるチャンスと受け止める、そういう大人の営みだと思う。


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