ハーバード・ジュリアードを 首席卒業した私の 「超・独学術」 廣津留 すみれ 

読書感想文

図書館の本棚で、適当に隣にあった本を選ぶ、ということはないだろうか。

本書は、そんな中出会った一冊。

著者は、普通の高校生から、『ハーバード大学合格→ジュリアード音楽院』にいったという才媛(死後か)。

なかなか面白い発見があった。

やはり努力家なのは、言うまでもないが、日米差について、面白いことを感じた。

一つ目のキーワードは「自信 Confidence/Vertrauen」ということば

著者が、ハーバードで室内楽リーダーをつとめていた時の話。
他のメンバーも多忙のため、疲労困憊している。
それでも


「疲れていようが、忙しかろうが、これは何日までに、ここまでのクオリティで!」と断固たる姿勢で指示しないと、アメリカでは信頼されません。
とくにハーバード生は、誰もがリーダーになる資質と意志を持っているので「リーダーシップを示す気がないなら、いつでも僕がとってかわるよ」ということになりかねません。
1、2年制のときは、日本人らしい腰の低さがなかなか取れなかった私ですが、このころには「リーダーららしさ」を出せるようになっていました。
リーダーらしさとは、すなわち自信です。
自信を「なくても見せる」ことです。
「私は状況をすべて把握しています、私の言うことを聞いて下さい」という態度を示すことで、人がついてきます。~P.124

いやー、実にアメリカぽいではないですか。
しかも、二十歳くらいの学生の意見とは思えない。
タフネスを要求されるのだろう。

もう一点、「自信」というワードが登場する箇所がある。
それはハーバードで、人脈作りのために用意されたパーティ、社交の場において。

名門家庭の子女たちは、そうした中でもエレガントにふるまう。
人の輪にタイミングよくすっと入り、自己紹介と握手。自分のしていること、したいことを伝え、ジョークをはさむ。
そうしたエレガンスをすぐに身につけられたわけではないが、ポイントは以下のこと


それは「自信がなくても自信ありげに振る舞う」こと
私を含め、周囲の「パーティ初心者」は皆これを実践していました。「こうした場に慣れていますよ」という顔で振る舞えば、そのうち本当に慣れるものです。勉学だけでなく、こうした度胸のつけ方を学べたことも、ハーバードで得た貴重な財産だったと思います。

これも、「うぉ~ん」とうなってしまった。
日本では、社交の場におけるこうしたエレガントな自己紹介が存在しない気がする。
異業種交流会、名詞交換シーンなどあるが、まぁ、酔ったおとっつあんたちが、あんまり洗練されていない挨拶をしている感じである(自分もふくめ)。
エレガンスのかけらもない。笑

話をもどすと、アメリカにかぎらず、欧米は、「自信」のある、なし、「度胸」が日本より重視されていると感じる。

そして、自信のつけ方は、能力を高めることとに加えて、「自信ありげにふるまう」ことでつくらしい。
いわば、よい意味の「はったり」をかます、というやつである。

「おれ、イケイケやねん!」くらいで、ちょうどよいのかもしれない。爆笑

それくらいでないといけない競争社会なのだろう。
とくに、ジュリアードでは競争の熾烈さ(ポストがすくない)から、生徒がカウンセラーに通うことにもふれられていた。
あの巨大アメリカでさえ、音楽家のポストは少ないのだ、いわんや日本をや
東京に9つくらいオケがあるが、ひとつくらい和歌山にパスして、、、生活費安いですよ。笑 脱線


日米差という点で、もう一つ面白いと感じたポイント。

それは著者のブログには、英文と日本語両方のページがあるという。
英文のほうを読むと「熱いキャラ」と思われるでしょう、と。
日本語だと、かるいおしゃべり文。

それをふまえ著者はこう結論づける


つまり日本人は「私はこういう人間である」「私はこう思っている」ということを語らないのが基本なのです。
露骨にものを言わない慎み深さが美徳とされているからでしょう。

しかし、もし私が日本語で書いている内容を英語版にのせれば「なにも考えてない人なのね」となるはずです。
日本人の慎みは、ともすると、会話の深みや濃さを損なうと思います。

たとえば映画を観た後、その感想を真面目に語ると「暑苦しいと思われそう」と思ってあたりさわりのない会話だけ交わすことはありませんか?
 外国人と話すときは、そのフィルターを外しましょう。きちんと物事を考えている人であることを伝えるには「熱く語るくらいがちょうどいい」のです。
~P.187

このブログの日英の違いは、非常に端的だと思う。
日本は以心伝心の国で、言語化を好まない、積極的ではない社会だ。
忖度、空気を読むという社会。

日本人がもつよい意味での慎ましさという部分と、マイナス面、両方が含まれているので、ことはやっかいだ。
「閉じた国をやめて言語化しよう」とそう単純化できないのだ。

著者も別の箇所で、次のように述べている。


[日本人が] 「知的ではない」という意味ではない
むしろ、言葉にやすやすと落とし込めない複雑さが、日本人の思考や文化には多分に含まれていると感じます。
しかし国際社会でそれを理解してもらうのは困難です。
「この人、なーんも考えてないんだ」で終わるでしょう。

分かる話ではないか。。。
日本人の慎み深さには、よい面と変えていったほうがよい面、両面あるのだ。

この問題は大きくて、明治期の夏目漱石の英語論を思い出した。とはいえ、それまで書き出すと、また長くなるので、また機会があれば、、。

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